真宗大谷派 西福寺

大分市 真宗大谷派 西福寺

2011年

1月11日は『鏡開き』ということで、お供えしていたお餅を戴きます。何故、「鏡開き」というのか不思議に思い調べて見ましたら
「鏡餅という名称は、丸い形が昔の青銅製の丸い鏡に似ていることによるもので、お供えしていた鏡餅を木槌で叩き割る「鏡開き」はもともと武士の風習でした。男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を女性は鏡台に供えた「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。しかし、武家社会では「切る」という言葉を嫌いこのとき刃物は使いませんでした。それで、叩いて割るのですが、おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼ぶようになりました。」ということです
今は、鏡台にお餅をお供えしませんが、昔はしていたのですね

この、「縁起」という言葉は、本来、仏教の教えで『縁起の法』すなわち、一切の事象は「因」、因と縁によって生起するという物事の道理を表した言葉です。
「縁起」とは、「縁によって起こる」という、ごく自然なあたりまえのことで、「縁起の善し悪し」は、出会う縁によって、生じる結果の善し悪しが違うという意味ですが、出会う縁の善し悪しは受け取り方によるもので、悪いと思った縁でも結果は善くなることもあり、縁そのものに善し悪しはないのでしょう。また、自分に都合の良い、思い通りの善い縁ばかりが続くはずもありません。言葉は時代の中で、本来の意味とは少し違って使われているようです。

『よしあしの文字をもしらぬひとはみな  まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがおは  おおそらごとのかたちなり』  (親鸞聖人)


近所の方から、狸が死んでいたということを聞きました。最近見かけない『ポンタ』でしょう。この冬は寒さが厳しく、かわいそうなことです。
穴の中で子供でも生き残っていたらいいのですが


若い人が急に事故でお亡くなりになったりすると「その悲しみのあまり、神も仏もない様な・・」という思いをすることがあります
確かにお気持ちとしては分かりますが、自分のいのちですが、生まれてくる時と、自殺は別にして還る時を選べません。
死因を医学上は肺がん・心不全と病名で記しますが、仏教では「死因は生まれてきたことであり、病気や事故を縁にして、還っていく」と示しています。
すなわち、人に生まれてきたことが、死因ですから、命あるものは、皆、死因を抱え、出会う縁次第で、病気になったり、事故にあったり、悲しいですがそれが事実です。
だから、人は神や仏にお参りし、「悪い縁に出会いませんように」とお願いするのでしょうが、神は分かりませんが、仏(真宗の阿弥陀如来)は、そういう私たちに、逆に、「いつ還るか分からない、はかない命を今戴いているのです。その尊さに気付いて下さい、若くしてなくなっていく人は、その事実を身をもって教えてくれる仏様です」と教えてくれています。
その意味では、「神も仏もない」ではなく、お葬儀で、「亡き人を、一番大事なことを、身をもって教えてくれた仏様として仰ぎ、無限の時間のなかで親子として家族として出会えたことに心からのお礼を申す」ということが、はじめて始まるように思います。


東北関東大震災、あまりも痛ましく、これから先のことを思うと心がふさぎます。
震災で亡くなられた方に,金子みすゞさんの詩を送り心から哀悼の意を表します

  「花のたましい」

   散ったお花のたましいは、
   み仏さまの花ぞのに、
   ひとつ残らず生まれるの。

   だって、お花はやさしくて、
   おてんとさまが呼ぶときに、
   ぱっとひらいて、ほほえんで、
   蝶々にあまい蜜をやり、
   人にゃ匂いをみなくれて、

   風がおいでとよぶときに、
   やはりすなおについてゆき、

   なきがらさえも、ままごとの
   御飯になってくれるから 


福島の原発がなかなか収束しません。関係者の皆様は必至に対応しているのでしょうが、放射能という見えない壁にはばまれて一進一退を繰り返しています。一日も早い収束を願わずにはおれません。
また、家族が亡くなられ、家を失った方が避難所に避難していますが、これから本当に大変な時を迎えると思います。日本中の方が支え合い、復興に向けての歩みが始まることを祈っています。
私たちが、今できることは救援金を送ることしかできませんが、災害に会われた方の傷みを思い、何ができるのか模索していきたいと思います。


法話が聞けます」のページ新設しました、1回目は田畑先生の法話をアップしています、ダウンロードして聞いて下さい。録音の仕方が悪くて、少し最初の部分が切れていますが、繰り返し聞いて下さい


京都の本山で3月~5月かけて「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」が勤まりました。御遠忌法要は50年に一度の大法要です。東北大震災が重なり、日程が変更になりましたが、全国からのべ数万人の方が参拝し、大分市組からも団体参拝で多くの方が参拝しました
天候にもめぐまれ無事参拝を済ませました、2日目は奈良に行き、法隆寺、東大寺にも参拝しました
一大事業が終わりほっとしている今日この頃です


10年ぶりに「ぎっくり腰」が再発しました、突然背中の筋が痛くなり、歩くのも何かにつかまりながらとぼとぼです。
寝込まずに何とか法務はこなしましたが、自分の体を自分で思うように動かせるありがたみをあらためて感じます
良くなるとまたすぐ忘れますが、病気はある意味では大事なことを教えてくれる縁なのでしょう


大津波、原子炉の電源喪失による放射能汚染と「想定外のできごと」という言葉が使われます
しかし、人として生まれてくることも,一生を終えていくこともみな「想定外のできごと」です
誰も、生まれてくる前から計画を立てている人はいません。その意味では,人生は想定外の連続です
世界最速のコンピューターを完成させたと同時に,放射能に汚染された水の処理すらできない現実があります
「奢れるもの久しからず」科学技術の進歩が大気を汚し,放射能で人が住めなくなった土地を生み出したのも科学技術です

今一度立ち止まり、「本当に大事なものは何か」考えて見る必要があります

「深い悲しみと深い喜びとともに念仏申す人になりたいものであります」(細川 巌) という言葉を残された方がいます

想定外の人生で大切なことは、「他を批判することではなく」「深い悲しみとよろこびの心をたもつ」ことではないでしょうか

一番難しいことではありますが

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