真宗大谷派 西福寺

大分市 真宗大谷派 西福寺

2013年

新年明けましておめでとうございます

今年も、大晦日の除夜の鐘、元日の「修正会」に始まりました

年末のお参りの時、決まって「一年経つのが早いですね」が決まり言葉になるような気がします

一年経つのが早く感じるのは、「物忘れ」の始まりです。一年間の出来事が記憶に残らなくなるからだそうです。早く言えば「老人性健忘症」の始まりです。

物忘れと言えば、一番忘れるのが仏法です、法要にお参りして講師のお話を聴いても、すぐ忘れていきます。
そのことを、蓮如上人は、「私たちはザルのような者である、聴いても聴いてもザルの目からこぼれ落ちてしまう。だから、機会があればそのザルを水に浸けたままにしていることが大切である」と、また、「ザルを水に浸けたり出したりしていると、少しザルについた汚れが落ちるけど、ザルには変わりない」と、その意味では忘れるのが当たり前である。しかし、私たちは忘れても、仏方は決して私たちのことを忘れない。
そういう私であることが分かると、忘れることが苦にならない。かえって、申し分けないことである「南無阿弥陀仏」とお念仏に通じるのです。

江戸時代の妙好人(在野のお念仏を喜んで生きた人)に、島根の有福に善太郎という方がおられた。善太郎さんは、小さい頃に母を亡くし、また、結婚後は相次いで子供さんを亡くし、近くのお寺で聞法を続けられてきた方です。
ある時、善太郎さんが、京都の本願寺にお参り行かれた帰りの道中、安芸(広島)の同行の家に泊まられた。ご馳走になり、法話談義に話をはずまされたが、善太郎さんが帰られた後、あわせの着物がなくなった、家中捜したが見つからず、主人がお手伝いさを問い詰めたところ、善太郎さんが持ち帰ったのを見たという。主人は、善太郎さんは信心深い人だと思っていたが、とんでもない人だ、黙って持って帰るとは盗人と同じだと憤慨したそうです。

数年後、主人が有福温泉に行く機会があり、ふと、着物を盗んだ善太郎のことを思い出し、家を訪ねて問い詰めたそうです。善太郎さんは初め私は知らないと言っていたが、お手伝いさんが持って帰るのを見たと聞いたとたん、「申し訳ないことである、今ここにその着物はないので、お金で弁償させて下さい」と、お金を支払い、そのうえ、手土産に草餅をことずけ、お手伝いさんにもお渡し下さいとことづけたそうです

主人は安芸に帰り、その話をして、善太郎さんのことをとんでもない人だと悪く言い、お手伝いさんに草餅を食べるよう渡した。
すると、お手伝いさんは泣きながら、善太郎さんは悪い人ではありません、着物を盗んだは私です、その私をかばってくださり、草餅までことづけて下さり、とても戴くことはできませんと泣いて謝ったそうです。

とても私たちは善太郎さんのようなことはできません。物忘れがひどくなっても、人に言われた悪口は忘れることはありませんが、自分の言った悪口はすぐ忘れてしまいます。

しかし、ぼろザルを水に浸けたり出したりしているうちに、ついている泥が少し落ち、善太郎さんのように、自分のことより、嘘をついているお手伝いさんの事情に思いを懸けることが少し始まるのではないでしょうか

今も島根の有福温泉では、この逸話をもとに「善太郎餅」がお土産として販売されているそうです。


本年3月より、四日市別院本堂の修復工事が始まります
この工事は、豊前豊後のご門徒のご浄財によりすすめられます
宇佐の四日市別院は、「九州御坊」として九州一の木造建築として護持されてきました。このたび、「日豊教区・四日市別院 宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌」の記念事業として3年をかけての修復工事が始まります

ご門徒の皆様のご協力をよろしくお願いします


今年も「春のお彼岸法要」を勤めることができました,多くの方のお参り有難うございました

天親菩薩の「浄土論」という書物のなかに「五念門」ということを記されています「礼拝(らいはい)」「讃嘆(さんだん)」「作願」「観察(かんざつ)」「回向」の五つの門(入口)です
 浄土を願う衆生に示された大切な心です。御法事、月忌、寺の法要等全ての仏事は,この五念門の心を形に表したものだと言えます、心から礼拝し讃嘆(誉め称える)する、そして作願(願いを起こす)する。
 年忌法要も故人の在りし日を偲び,その徳とご恩を礼拝し讃嘆する,お経を一緒に読むということは,讃嘆するということです。
そして、お経に示されていることを観察(仏の智慧の眼でつぶさに見る)その全てが回向ということであり、故人の德を偲ぶことを通して仏の教えに出遇うことです、その時、先立たれた故人が「諸仏」として多くのことを教えてくださっていることに気がつくのです。

しかし、親鸞聖人は、その五念門の行が自分自信おいて徹底できなことを悲しみました、大切なことと教えられながら、次から次に身勝手な思いが沸き起こってきます,そのことを和讃に「妄念 妄想 われらが身に充ち満ちて とどまらず きえず 絶えず」と、そういう私たちの心を「仏かねてしろしめして」大悲の誓願を起こされたと、そのことが「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことに込められていると気がつかれたのです。
 ですから、「五念門」は「お念仏申す」ということに全て含まれている
回向も私が回向するのではなく、仏様の方から回向されているということが明らかになる、その時、また「南無阿弥陀仏」と御恩報盡の念仏が始まるのです。 


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