真宗大谷派 西福寺

大分市 真宗大谷派 西福寺

2014年

今年も早くも二月になりました
最近物忘れが激しくなり、ホームページの修正パスワードが思い出せず今まで更新していませんでした
ふとしたことからパスワードを思い出しやっと更新しました。
人間の記憶というものは、完全には忘れないでどこかに残っているものですね、ただ、一時的にどこにしまったか引き出しを忘れてしまうことが多々ある、忘れるはずがないものを忘れてしまう、困ったものです

よくテレビの報道等で「他力本願」ではだめです、という言葉を耳にすることがあります
本来「他力本願」の「他力」というのは「仏の働きの力」を表すもので、「他人のことをあてにする」という意味ではありません

「仏の働きが願いとなっていつも働いている」ということです。人間は厚かましい者で、いつの間にか、自分で生き、他の世話にはなっていないと思ってしまいます。

年の初めの行事に「お日待ち」というものがあります、字のとおり、厳寒の中お日様の恵みに深く感謝しようという気持ちを表したものです。現代人が忘れている、自然の大いなる恵みに生かされていることに、感謝の気持ちをあらためてもとうという行事です。

朝になれば日が昇るという、当たり前のことが、当たり前でなかった。私が生きているのではなく、他の多くの働きの中で生かされている、それが本当のことです

その生かされている「私」って一体何なのだろう、確かに「私」という体があり、「私」という思いはあります

でも「脳」の中にここが「私」だという場所はありません、それぞれの脳の役割があり、記憶をつかさどるところ、思考をつかさどるところ、感情をつかさどるところが関連して働いて、この「体」を「私」と認識させる働きをしているのです。

当たり前といえば、当たり前のことですが、仏教では「私のいのち」ではなく
「無量寿」(仏のいのちのはたらき)に帰れと呼びかけてきます。「私の命」にたてば、老いと共にしぼみ、病とともに傷つき、死とともに滅んでいきますよと、「無量寿」は「死」でも滅びない仏のはたらきです「他力」とはそういう働きを指す言葉です

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